ITSのある生活(No.3)
「移動」に対する思考/70年代後半から90年代後半の背景/「情報通信屋」から「ITSベースのITS屋」へ

○長谷川
埼玉大学の長谷川でございます。
3人目は理系でございますが、もともと、学位はスペクトル拡散とか、あるいはCDMAとかという情報通信が私のベースになっています。
87年ごろからニューラルネットに興味を持って、ニューラルネットの構造そのものとか、新しい高速の学習手法とか複素化とか、あとは情報通信への応用みたいな、そんなところをやってきました。基本的に研究者は、ある部分の技術のところにぐっと深掘りしていくというスタイルが多いと思うんですが、私の研究はまさに情報通信であって、情報通信は「情けに報いて通って信ずる」と書きますが、要するにそのためにたまたまCDMAとか、スペクトル拡散がフェーディングに強いとか、こういうところに一時携わっていたということなんじゃないかと思っております。
こういう分野をやっていたので、はじめころに吉開さんと情報通信関係の国際会議に出席するために乗った飛行機の中でお会いしたということもありました。でも、今はもっぱら「何屋さんですか?」と言われると「ITSベースのITS屋だ」と、もう既に情報通信とはちょっと違うなと、情報通信屋とは言えないなと自分で思っております。
じゃ、どうしてそこに移ったのかといいますと、きっかけは93〜94年ごろだったと思います。私ども、86年〜87年ごろにスペクトル拡散通信の研究会というやつを電子情報通信学会につくりまして――この電子情報通信学会というのが私の日本での活動の拠点になっているところなんですが――そこでCDMAそしてその元になるスペクトル拡散技術に対し、ああでもない、こうでもないといろんな議論を重ねてくるうちに、93年ごろになってきたらCDMAが大分実用化に近くなってきまして、あるところの学会の全国大会へ行ったときに、人はいっぱい集まっているんだけれども、そこで出てきた質問というのが「このパラメーターはもうちょっと上の範囲で動かすべきで、ちょっと低い範囲で動かし過ぎているんじゃないですかね」というような質問で、黎明期は過ぎたな、大学としてやる研究としてはそろそろ次のことを考えなきゃいけない時期に来ているのだろうなと、分野そのものを考え直そうという気になりました。
大学としては、食うためにすぐ先のこともやるんですが、大体は、15年後ぐらいに社会にそろそろ浸透できるようなものができれば、それで役に立つものができればいいかなと、そんなふうなスタンスで思っておりましたので、そろそろ我々のやる分野ではなくなったかもしれないと思い始めていたのが93年ごろでございます。
私、カナダに1年ほど行っておりまして、それから帰ってきたのが96年の春なんですが、そのころからITSというのに興味を持ちまして、何かちょっと人の移動っておもしろそうだなと思うようになりました。要するに、結局私の興味は何だったかというと、以前は、情報の移動が主たる興味だったんですが、そのころからぐっと変わりまして、人や物の移動というのが私の興味の範疇に大きく入ってきて、やがてはそれが中心になっていったといった次第です。
今、1番目の話題で、欧米の認知度合い、あるいは米国で移動することに対する高い価値というのがここに書いてあるんですが、この話題って今の日本の閉塞性とも非常に直結していると思います。
要するに、もう少し日本の中にシステム思考を入れなきゃいけないということを切実に思っております。ITSなんかを見ても、先ほど出た縦割りという話もありますが、学術の中でもあるシステムとかある分野だけを使って何でもかんでもこれでやってしまえとか、また要素技術を集めたらそれはシステムですよというような風潮があるという感じが私の中で非常にしています。
そうすると、何をやったらいいのかという基本的なところを、あるいは混沌としたところで何をどうやったらいいのかという基本的なところを考える前に、システムがこうあって、これがあるから何か1つこうやってしまうと、もうそれが象徴で、それがあるシステム、ある技術で終了ですよと、総合的に人とか物の移動ということに対しての考察では全然ないレベルで議論されているような気がします。
学者の中でも、情報通信学会の中にITS研究会をつくったときに、「今、ETCがもうできちゃって、ITSはこれで終わりです」というようなことを言った人がいるんですが、そういう横やりが入ってきて、これは困ったものだなと。そのときに思ったんです。
特に、ここで申し上げるのは釈迦に説法かもしれないんですけれども、70年代後半から80年代に関しては、ヨーロッパのPROMETHEUSとか、日本なんかでもITSという名前こそ93年ごろ出てきたんですかね。でも、それ以前に同じような試みというのは行われていた。
80年ごろ「ジャパンアズナンバーワン」というのが出て、日本でも82年ごろですかね、和訳されてみんな読んだと思います。あの後アメリカがすごく自信を失った時期があって、トヨタなんかにも見に来て、カンバン方式とか、いろいろ日本とかヨーロッパに視察に行って勉強していった。「どうしたらいいんだ。やつらはこんなことをやっているよ。」それで持ち帰って、結局任意団体をつくったりしながら、93年に巨額な予算がついた瞬間に彼らは何をやったかというと、システムアーキテクチャをつくり始めたんですね。
それで3年かかって96年にシステムアーキテクチャが完成した。そのおくれること何年かで日本はできたわけですけれども、99年の秋だったと思いますね。98年か97年ごろ、それぐらいに着手して、やっと99年の秋ぐらいに最終的にできて発表した。
なぜこういうことが起こったんだろう。それは、やっぱり彼らがずっと先頭を切って歩き続けてきたからだと私は思っているんですね、これは個人的にですけれども。
どういうことかというと、ITSというのはものすごい大きなシステムで、社会システムの中の1つで、そのシステム相互の関係をはっきりさせるということをまずやって、海図みたいな仕事を位置を見失わずに進められる道具をきちんとつくらなきゃあかん。こういうことでつくったわけですが、システムアーキテクチャというのは69年の大プロジェクトのアポロ計画のときに既にやっていた。
アポロは、要するに物理方程式で月まで飛んでいったのは事実なんだけれども、もう一つ非常に大きな成功の要素は、そういうふうに非常に巨大なシステムがあったときに、システム間の関係をはっきりさせるということをしてから仕事をしていた。だから、世界で誰もやったことのないことをやるときに、1つのある程度の系統立てた手法を彼らは持っていたんじゃないかと僕は思うんです。だからいきなり93年に巨額な予算がついたら、3年もかけてそういうことを整理した。
アポロのときに私は小学生でしたけれども、ミノルタのカメラを持っていかれたということが非常に誇りでした。それはどういうことかというと、それはいろいろな要素もあったにせよ、いいものを安く提供し続けてきたのが日本だと思うんです。それがずっと2番目の国だったとき、第2国だったときはそれでよかった。
つまり、パッとアンテナだけ上げていて、アメリカがさんざんアイデアとかコンセプトとかというのに物すごくお金をかけて、いろいろ議論をしながら構築していった。「これが必要ですよ」といったときにササッと出ていって、安くていいものを提供しますという、そのキャッチアップ時代の成功スタイルをずっとやり続けてきた。
だから、先頭の国になって、何もわからないときに、何か混沌としてどうやったらいいかわからないときにどうするかというと、またアメリカがやったこと、欧米がやったことを見て、それをササッといいものを安く提供しますというスタイルを繰り返し続けようとする。
これが今ここまで来ちゃったときに、コンセプトとかシステムではアメリカには追いつかない。そして東南アジアの発展途上国は人件費が安いから、みんな製造部門を持っていかれて空洞化すると心配する。製造は途上国できるんだったら、私はできるところでやればいいと思っているんですよ。そんなことを日本がやっぱりやるべきでなくて、何をどうするかというような本質に立ち返ってシステムづくりをきちんとしていくような手法をちゃんと我々がもたなければならない。
結局、システムとかコンセプトをもっと大事にするということで、本質に迫るような世界初めての考え方とか、こういうのをちゃんと系統的に出していけるような社会、そこに価値をきちんと価値を置くような社会にしておかないと、結局この閉塞観は免れないということです。
たとえば、移動という本質はどこにあって、どんなふうなシステムで提供したらいいんだろうとか、マルチモーダルなフレートなんかをとにかく総合的に考えましょう、移動することそのもの、あるいは物を移動させることそのものを考えましょうというというような辺りの思考が日本と違うのかなという感じがしているというのが、私、この1番目を読ませていただいたときに感じた部分であります。
以上です。

○赤羽委員長
ありがとうございました。いかがですか、今の点について。

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